学部の頃への立返

GHQの経済政策と制度学派経済学

現在の日米関係は、明らかに対等なものとは言えないものですが、このいびつな関係は、占領下のそれとは大きく異なるものであることも事実です。占領下の日米関係というと、ともすれば、「支配従属関係」といった、屈辱的なものを連想し勝ちかもしれません。そういった側面があったことを否定するつもりはありませんが、こと、経済政策に限ってみれば、占領下の日米関係、言い方を変えれば、占領軍が日本社会に及ぼした影響の中に、積極的な、あるいは、肯定的なものが見て取れることを無視すべきではありません。しかも、そうした政策の実施主体は、体系的な考え方のもとにまとまっていました。実施主体は「制度学派経済学」に依拠していた「ニューディーラー」と呼ばれるグループでした。当時GHQの一員として「財閥解体」を担当していたエレノア・M・ハドレーは、当時を回想した著書(エレノア・M・ハドレー + パトリシア・ヘーガン・クワヤマ 共著  財閥解体 GHQエコノミストの回想)の中で、「占領について自分の経験を書いたセオドア・コーエン(コロンビア大学大学院で学んだ制度学派経済学派に属する労働経済学者)は、研究に『日本の再構築:占領期のニュー・ディールとしての役割』という題をつけた。占領はまさにニュー・ディールであった。占領政策は確かにニュー・ディール構想に沿った部分がたくさんあった。」と論じています(ハドレー外 前掲書 111ページ)。そもそも、GHQ内で民主的改革推進の中心人物だった、「民政局」次長のC・L・ケーディスも「ニューディーラー」でした(竹前栄治 著 GHQ 107ページ)。日本の経済学の学会では、「制度学派経済学」あるいはこれを包含する「制度派経済学」は、その本流からは、ほぼ完ぺきに無視されているので、権威のある研究者による体系的な研究などに接することは期待できないでしょう。しかしながら、「制度学派経済学」に裏付けられた「ニューディーラー」が、GHQの活動の一環として、あるいは、「制度学派経済学」の活動の一環として、当時の日本に施した施策は、現在の日本社会をどう見るかという観点からしても、あるいはもっと広がりのある観点からしても、見落とすことのできない多くの教訓を内包したものだと思われるのです。

GHQの経済政策は、多岐にわたりますが、ここでは、「財閥解体」、「労働改革」、「農地改革」、「シャウプ税制導入」に着目してみることにします。「財閥解体」は、「ハドレー外 前掲書」の著者であるエレノア・M・ハドレーなどによって遂行されました。しかし、ハドレーは、1950年から1966年までレッド・パージの対象とされたことも知られています(ハドレー外 前掲書 33ページ。)。ここでは、やや単純化して議論を進めていますが、GHQの権力構造が一筋縄ではいかないものであったようです。「労働改革」は、「制度学派経済学」派に属するセオドア・コーエンなどによって遂行されました。「農地改革」は、もともと日本のエリート官僚によって計画されていたものだったのですが、当時、日本の国会に「農地改革」の法案が上程されたところ、在村地主の権益の擁護(小作人に売らなくてもよい農地の面積の大幅な拡大)という骨抜きをされそうになったということがありました。このことを知ったGHQが「農地改革についての覚書」という「指令」を発出したことによって骨抜きは阻止されました(大和田啓氣 秘史 日本の農地改革 | 農政担当者の回想 79ページ以下)。こうしたいきさつから、農地改革もまた、ニューディーラーの関与によって、はじめて実現させることが出来たものだったと考えて良いでしょう。「シャウプ税制導入」と制度学派経済学との関係は、やや難問です。そもそも、税制使節団長のカール・S・シャウプは、コロンビア大学、商学部教授兼政治学部大学院教授で、狭義の経済学者ではありませんでした。しかし、制度学派経済学は、隣接する学問との関係が強かったこと(制度学派経済学を代表するといわれているソースティン・ヴェブレンは、社会学を兼任する学者でした。)、制度学派経済学の拠点となっていたのがコロンビア大学であったところ、シャウプはコロンビア大学の教授であり、7名からなる税制使節団の委員の内、3名がコロンビア大学の教授であること(山下壽文 著 戦後税制改革とシャウプ勧告 3ページ)などから、シャウプ税制導入もまた(ニューディーラーが遂行したものだ、とまで断言することはできないかもしれませんが、)制度学派経済学の影響のもとに実施されたものだったということは間違えないと思われます(金子宏 著 租税法理論の形成と解明 上巻 224ページ)。

このように、GHQによって行われた経済政策は、制度学派経済学を背景としてニューディーラーたちの手によって、体系的に行われたものでした。制度学派経済学に導かれたGHQの経済政策が、その後、日本の資本主義経済が発展していくために必要な「初期条件」を整備してくれたことは、議論の余地はないと思われます。戦後の日本の「高度経済成長」は、GHQの経済政策の賜物だったということになるのです。制度学派経済学にとっても、多分、GHQの経済政策への関与は、自分たちの理論の正しさを実証することを目的とした大掛かりな社会実験だったのだと思われます。

制度学派経済学は、現在も、GHQを通して日本で行ったような活動を続けているようです。このことを教えてくれたのは、東大で教授をしていた友人でした。友人は、 (Douglass C. North , John Joseph Wallis , Steven B. Webb and Barry R. Weingast Limited Access Orders : Rethinking the Problems of Development and Violence) といった小論(英語のWebにアップされています。)といった小論を紹介してくれました。紹介された小論は、国民経済を「リミテッド・アクセス・オーダー」の国と「オープン・アクセス・オーダー」の国に類型化し、発展途上国に対して、これまで、その経済発展を「リミテッド・アクセス・オーダー」のモデルで解決しようとしがちだったと総括しました。そのうえで、これからは、発展途上国に対し「オープン・アクセス・オーダー」のモデルに依拠してすべきだという提言でした。「リミテッド・アクセス・オーダー」というのは、「一部の者にしかチャンスが与えられていない体制」とでも訳せる術語です。伝統的には、開発独裁と呼ばれるもので、権威主義的な政治権力と財閥が手を組んで開発途上国である自国の経済をけん引していくという手法です。ここでは、一般の国民は、政治活動の中心にも経済活動の中心にも関与することができません。これに対して、「オープン・アクセス・オーダー」というのは、「チャンスが全員に開かれている体制」と訳せる術語です。ここでは、政治活動にも経済活動にも、全員が参加できます。これまで、こうした社会は、先進国でしか実現できないと考えられてきました。しかし小論の中で、ダグラス・ノースたちは、発展途上国を指導していく姿勢の問題として、「『リミテッド・アクセス・オーダー』は行き詰まっており、『オープン・アクセス・オーダー』への移行が模索されるようになってきている、これからは、『オープン・アクセス・オーダー』を発展途上国の経済発展のモデルとして採用していくべきだ。」と論じているのです。

この小論は、GHQの経済政策における制度学派経済学の問題関心、あるいは、「GHQによる占領」の前と後の日本の社会の変容についての理解の仕方という観点からして、極めて示唆に富むものであると思います。というのも、明治維新以来の日本の経済発展を俯瞰してみると、日本の経済の「アクセス・オーダー」は、第2次世界大戦の前後で全く異なったものに変質していることを見て取ることができるからです。明治維新から第2次世界大戦前まで、日本は、典型的な「リミテッド・アクセス・オーダー」の国でした。しかも、経済発展という面では、それなりに成功していました。ここに、突如として「GHQによる占領」という断絶が介在します。「GHQによる占領」の中で、制度学派経済学に依拠した「ニューディーラー」がGHQの経済政策を通して実現したかったのは、日本の「オープン・アクセス・オーダー」への方向転換でした。「GHQによる占領」の後、「オープン・アクセス・オーダー」の国として、日本の経済は発展することができたという訳です。

しかし、制度学派経済学に導かれたGHQの経済政策が日本に及ぼしたプラスの影響にも限界がありました。戦後の日本の「高度経済成長」は、バブル崩壊後、息切れしてしまったからです。息切れは、現在も解消できていません。このことは、多分、制度学派経済学に導かれたGHQの経済政策が日本に植え付けてくれた、日本の資本主義経済が発展していくために必要な「初期条件」が、時間の経過とともに通用しなくなってしまったことと無関係ではないでしょう。日本は、制度学派経済学に導かれたGHQの経済政策がもたらしてくれた「初期条件」のもとで40年以上繁栄を謳歌してきたのですから、「アクセス・オーダー」をバージョン・アップし、次の発展に向けた新たな経済インフラのフレ-ムづくりに専念しなければならなかったはずだったのではないでしょうか。しかし、現実の日本では、今日に至るも、そうした動きは何も見られませんでした。さらに言うとすれば、スタート・アップ企業への待遇も問題かもしれません。GHQの経済政策は、単に日本経済一般を底上げしただけでなく、日本を、世界に通用するスタート・アップ企業の揺籃場にしました。事実、このころ、ソニーやホンダなどが創業して、後に、世界規模で、大きな成功を収めています。スタート・アップ企業の重要性は、最近の日本でも意識されるようになり、その育成に力を入れようとしているようです。しかしながら、今のところ、そうした取り組みから産声を上げたスタート・アップ企業は、どれも小ぶりで、国際性に乏しく、既存の技術の思い付き的応用にとどまっているように思えてなりません。GHQの経済政策がもたらしたスタート・アップ企業と現代のスタート・アップ企業の違いは、おそらく、GHQの経済政策がスタート・アップ企業にとっても望ましい「初期条件」をもたらしたのに対して、現代のスタート・アップ企業にはそうした「初期条件」が用意されていないことによるものと思われます。こうしたことも含めて、現在の日本は、あらゆる面で、経済インフラのフレームの整備を迫られているということができると思われるのです。

営利事業の主体

岩井克人先生は、「会社の新しい形を求めて なぜミルトン・フリードマンは会社についてすべて間違えたのか」(一橋ビジネスレビュー 2020 WIN 8ページ)という論文の冒頭で、「個人企業」と「株式会社」を対比することによって、フリードマンの会社についての誤った理解を糾弾されています。岩井先生フリードマン批判は、結論についても、個々の論点についても、異論などある筈もなく、もろ手を挙げてすばらしいと思うのですが、岩井先生の営利事業の主体ついての全体的な見通しについては、若干の疑義が残りました。

営利事業の主体は、「1人の自然人vs複数の自然人」という二項対立、「グループとしての(複数の)自然人vs法人」という二項対立、「持分会社vs株式会社」という二項対立で整理することができます。これらの二項対立している営利事業の主体は、その時々の立法で、さまざまなバリエーションが付加されたり削除されたりしてきましたが、時系列的観点、論理系列的観点からすると、こうした二項対立に整理することでき、しかも、それらの両極は、相互に影響を与え合い、関係しあうものであるということになるわけです。

「1人の自然人」が、財との間に結ぶ「所有」と呼ばれる関係は、単純なもので、その「1人の自然人」の意思ですべてのことができるものです。しかし、「複数の自然人」が、財との間に結ぶ関係は、何の工夫も施さなければ「共有」という関係になるしかなく、全員一致でなければ何もできない状態に陥ってしまいます。何人かが集まって元手を出し合えば、大きな事業が効率的にできるかというと、必ずしもそういうわけではないのです。「グループとしての(複数の)自然人」は、「共有」のアポリアから脱却するために、新たな制度の開発に取り組まなければなりませんでした。それは、例えば「組合(今の日本でいう民法上の組合)」のようなものだったかもしれません。確かに「組合」は、特別な目的の遂行には、適したところもあるものなのでしょうが、普通の事業の主体とするには、使い勝手が悪いものでした。そこに登場したのが「法人」という制度だったわけです。

「法人」という概念を抵抗感なしに受け入れられた社会は、「グループとしての(複数の)自然人」から出発して、種々の形態の法人を案出していったわけです。そのなかでも、が、営利事業の主体という観点からすると、その中心にあったのは「会社」という制度でした。もっとも、「法人」という概念は、すべての社会に受け入れられたわけではないようです(中田考 イスラーム法とは何か? 増補新版 183ページ)。「法人」という概念が受け入れられなかった社会では、「会社」に対応する制度(シャリカ)も「グループとしての(複数の)自然人」の集まりとしての「組合」にとどまっていたということです(中田 前掲書200ページ)。当然、論理序列からして、「法人」という概念が受け入れられなかった社会では、「会社」という考え方を受け入れることはできません。そうなると、経済活動にとって、かなり不自由な社会になるような気もします。一方、「法人」としての「会社」が考案できるようになると、まず、資産を管理することを目的とした「法人」として「持分会社」という制度が形成されました。そして、そこに他人を巻き込んで資金的な関与をさせ、営利事業をより大きなものにするための道具に関心が移行していき、「株式会社」という制度が案出され、洗練されて今日に至るということのようです。

営利事業の主体として「法人」という概念にたどり着くと、そのありようは「持分会社」と「株式会社」に区別されるようになるのですが、「持分会社」とはどんなものだったのか、また、「株式会社」はどうして普及し、どんな特色があるものなのかについて、確認しておくことが有益です。

まず、「持分会社」ですが、少数(または一人)の資産家が、その有する資産(の一部)をひとまとまりのかたまりとし、それに、一個の法人格を与えて、資産をひとまとまりのかたまりとした目的をより一層達成しやすくするために編み出された制度であるということができます。「合名会社」と呼ばれる組織が典型で、「合資会社」がそのバリエーションとされています(現代に近づくと、「持分会社」の中に、有限会社や合同会社と呼ばれる小規模の会社も含められるようになるのですが、原初的形態ではないので、ここでは論じないことにします。)。法律上の規制はほとんどありませんので、多くの事項を定款自治で決めることができることになっています。もともと自分の資産をその法人に持ち込んだ者(社員)と法人の資産との距離はとても近いものとされています。そうした特質から、戦前の財閥は、「三井合名」、「三菱合資」、「住友合資」、「(合名会社)安田保善社」など、組織の頂点に「持分会社」を利用しました。しかしながら、現在においては、株式会社の規制の自由化の進展で、「株式会社」を巧みに運営(構成)すれば、「持分会社」と同じ機能を持つ組織が作れるようになったので、現在では、「持分会社」は、ほとんど見られなくなりました。

これに対して、「株式会社」についても、普及や発展にさまざまな思惑が絡み合っていました。大航海時代が始まり、社会が中世から近世に移行を遂げつつあった16世紀のイギリスが、「株式会社」という制度の確立と普及の舞台でした。当時どのようなビジネスを行う場合にも、イギリス国王から勅許状(チャーター)の授与を受けなければなりませんでした。運よく勅許状(チャーター)の授与を受けることができた「商人」(以下「勅許状取得商人」といいます。)は、せっかく勅許を受け、自分にしか営むことのできないビジネスが出来るようになったのですから、
① 自分の特権を脅かされない範囲で、
② ビジネスが失敗に終わってもリスクを最小限にしたいという希望をもって、
③ 集められるだけの資金を集めてそれをより大きなビジネスにしようと考えました。
こうした思惑を胸に抱いて、イギリスの市民一般から広く資金集めをしようと考えた勅許状取得商人が、試行錯誤の中から採用したのが、「株式会社」という制度だったのです。この制度においては、「資金の出し手」は、単なる債権者(制度の未整備な段階における社債権者)でなく、「株主」という、勅許ビジネスの内側に、軽重は別として、一定の権利を有するものとして入り込める建前となっていました。勅許ビジネスが成功すれば、その分け前にあずかれます。こうした、「幻想」と「実利」が、当時のイギリスの「資金の出し手」の人気となり、「株式会社」の普及のカギとなりました。一方、勅許状取得商人にしてみれば、「資金の出し手」であるイギリスの市民一般は少数株主でしかなく、自分たちに勅許ビジネスがもたらす特権には、何の影響も与えることはできません。また、ビジネスに失敗しても、出資金には返金の義務はありません。そこで、勅許状取得商人にしてみれば、「資金の出し手」が社債より株式を好むというのなら、これに異をさしはさむ必要は、みじんも存しませんでした。このようにして、「株式会社」は、資金調達の手段として普及、発展してきました。少数株主にとって、「株式会社」のビジネスは、それが発展すればメリットになり大きな実利を得ることができますが、自分が経営に参加しているように思うとすれば、それは勅許状取得商人が少数株主に与えた幻想でしかありませんでした。

「株式会社」は、このように、むき出しの状態では、勅許状取得商人のような支配株主(経営者)にいいようにされかねない「弱者」としての少数株主を抱えた組織です。そこで、「株式会社」は、「持分会社」にほとんど法的規制がなかったのと対照的に、少数株主の保護を目的として、膨大な量の法令に囲まれた存在として、今日まで進化し続けてきました。もっとも現代の法律改正のなかには、これまでの少数株主保護とは色合いの異なるものも目立つようになってきました。その典型例が、「種類株式」という制度の創設です。「種類株式」という制度は、「株式会社」に、よく言えば、多大なフレキシビリティーを与えて、「株主」の「株式会社」に対して持つ意味を変質させるという、注目すべき事態を、出来させることになりました。「種類株式」は、少数株主にとっては、株式のより強固な社債化として作用します。株式の社債化のこうした側面は、「資金の出し手」としての少数株主から、会社支配という「幻想」をはぎ取り、「実利」をもたらす機能を強調するという方向性をもたらす制度の修正ということもできるでしょう。他方、「種類株式」という道具は、支配株主にとっては「利用しがい」のとても大きなものでもあります。株式市場に上場している、支配株主と少数株主からなる典型的な「株式会社」を、数名の株主だけからなる、むしろ「持分会社」に近い会社に変えてしまうことは、「ゴーイング・プライベート」と呼ばれ、今日ではさして珍しいことではありません。しかし、この手続きには「スクイーズ・アウト」と呼ばれるプロセスが必須で、「スクイーズ・アウト」と呼ばれるプロセスは、「種類株式」という道具がなければ、行うことできないものなのです。また、もっと単純な利用のされ方も、報じられています。GAFAは、資本市場で、いくら資金調達をしても、中心的メンバーの会社支配が崩されないように、「種類株式」を有効活用しているということです。

ここまで、営利事業の主体について、いろいろな角度から検討を加えてきたのですが、冒頭で言及した岩井先生の論文に立ち返るとすれば、岩井先生が、ミルトン・フリードマンの有する「株式会社」像と対比して論じるべきだったのは、「個人企業」ではなく、「持分会社」だったのではなかったかという気もします。もっとも、このことは、読者に、よりわかりやすい説明をするためのレトリックの問題であり、本質的意味はないことなのかもしれません。むしろ、現在の営利事業の主体の在り方を考えた場合、まさに「株式会社」という制度自体が「変質」しているかもしれないという問題意識こそが重要なのかもしれないからです。こうした「変質」は、もしかしたら、ミルトン・フリードマンの有する「株式会社」像の具体化と関わるものなのかもしれないのです。そこで、「株式会社」についても、その制度を静態的に所与のものとするのでなく、いくつかの類型に分けたり、理念型を構築したり、類型の比較検討をするといった作業も必要かもしれないと思うのです。

資本主義のルーツの所在地

同じ経済現象を対象とした言葉であるにもかかわらず、「資本主義」という用語の使われ方は、使い手によってかなり異なるという印象があります。どうしてそのように用語法のすれ違いが生じてしまうのか、常々、不思議だと思っていました。そんな中で、ひとつ、考えを進めるヒントになるかもしれないことに気が付きました。それは、マックス・ウェーバーなどによって重用された「封鎖的家族経済」などと訳される「オイコス」への着目です。「オイコス」を、その内側とその外側という空間の仕切りという視点でルーツの所在地を区別してみるという考え方から「資本主義」という用語の使われ方の問題を見直してみたらどうだろうという考えが浮かんだのです。こうした視点から改めて整理をし直してみたところ、同じ資本主義の経済社会を対象にしているにもかかわらず、どうして、まるで異質な「資本主義観」が像を結んでしまうのか、についての理由の一端が見えてきたような気がしてきました。

「オイコス」はもともとギリシャ語で、「家(いえ)」のことを意味していました。ギリシャでは、「貨幣」(ノミズマ)が発達していたのですが、「貨幣」は、「オイコス」の外側(ギリシャの場合のポリス)においては、財の公正で円滑な分配の媒介の手段として、不可欠のものとされていました(こうした当時のギリシャのことを、アリストテレスがどう論じていたのかについて、丸山俊一+NHK「欲望の資本主義」政策班 共著 岩井克人「欲望の貨幣論」を語る 119~163ページ が、興味深い解釈を展開しています。)。「オイコス」の内側の場合、財の分配は、家長が判断して決めていましたので、「貨幣」は必要とされませんでした。「オイコス」は、のちに、「自己充足的な経済圏」を意味する経済史学の専門用語として使われるようになりました。本稿では、「オイコス」を「自己充足的な経済圏」とする用語法を踏襲することにします。そこで、封建領主の領土も「オイコス」ですし、「国民経済」も「グローバル経済」との対比という文脈の中では「オイコス」ということにいなります。さらに、「オイコス」の内側だけでなく、その外側にも、そして、その内側と外側の境目にあたる「周縁」にも着目しながら、議論を進めることにします。

資本主義のルーツを「オイコス」の内側に求める経済理論の典型は、カール・マルクスの「資本主義論」です。マルクスによれば、資本の原始的蓄積は、「農民層の分解」あるいは「中産的生産者層の両極への自己分解」の中で、つまり、当時、社会の内部で、生産活動を担っていた者たちの中で進んでいきました。古い貨幣経済とそれに支えられた古い商業は、このような立場をとる論者からは、資本主義とは無関係のものとされた。こうした「人類の歴史とともに古い」経済制度には、「前期的資本」とか「遠隔地貿易」といったネガティブなレッテルが、貼られました。マルクスは、商業を蔑視し、商業資本主義とは未発達な社会に寄生する活動でしかないもので、「久しい以前から、資本主義的生産様式に先行し、そして極めて種々に異なる経済的社会構造において見出される、資本の大洪水(旧約聖書にある「洪水伝説」(ノアの大洪水)のことを指しています。)以前的諸形態に属する。」 (カール・マルクス 著 向坂逸郎 訳 資本論 第三巻 第二部 747ページ)といったことを繰り返し論じています。こうしたマルクスの発想は、マルクスの「商売人嫌い」、「生産者好き」からきているようです。マルクスは、商業のことを「流通費」として、一種の必要悪として扱っています。この考え方は、決して分かりやすいものではありませんが、マルクスは、商業のことを「この価値を作るのではなくただ価値の形態変化を媒介するだけの労働…。」「この売買担当者…の労働の内容は、…生産の空費に属する。」「いかなる事情のもとでも、このために費やされる時間は、転化された価値には、何物をも付加しない流通費である。」「それは諸価値を、商品形態から貨幣形態に転嫁するに必要な費用である。」と説明しているのです(前掲マルクス 著 資本論 第二巻 149~153ページ)。要するに、マルクスは、価格差を利潤の源泉とすること、それを生業とする商業、とりわけ「オイコス」の外側で行われていた投機的商業に、およそ積極的な価値を認めませんでした。この論点に関する限り、旧来の「政治的ないし投機的な志向を有する『冒険家』資本主義」を「賤民資本主義」とまで言い切ったマックス・ウェーバーの立場は、マルクスとほとんど同じでした(マックス・ウェーバー著 宗教社会学論集 第1巻 プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 戸田聡 訳234ページ)。アダム・スミス及びスミスに続く古典派の経済学者の場合はどうだったのでしょうか。マルクスは、考え方の本質は同じだったと考えていたようです(カール・マルクス 著 マルクス・エンゲルス全集 第26巻 第1分冊 剰余価値学説史 大内兵衛・細川嘉六 監訳 48ページ以下)。この経済理論は19世紀までは通用したものだったでしょうが、現在の資本主義の分析には、物足りないところもあるような気もします。

資本主義のルーツを「オイコス」の外側に求める経済理論の代表格は、マルクスによれば、彼が「重農学派以前」と呼んだ経済学者たちということのようです。マルクスは、彼らについて、「…利潤―は、純粋に交換から、商品をその価値よりも高く売ることから説明…」しようとするところに根本的な誤りがあると論じています(マルクス 前掲 剰余価値学説史 8ページ)。また、カール・ポランニーは、資本主義のルーツを「オイコス」の外側に求める経済理論をミハエル・ロストフツェフ(ローマ帝国社会経済史 を主著とするロシア革命直前の世代に属するロシアの学者で、他に 古代における資本主義と国民経済 という著作もあります。)に代表させ、資本主義のルーツを「オイコス」の内側に求めるマックス・ウェーバーと対比することによって紹介しました(K・ポランニー 著 玉野井喜朗・中野正 共訳 人間の経済 Ⅱ 484ページ、もっとも)。この、資本主義のルーツを「オイコス」の外側に求める考え方の場合、「オイコス」の周縁が、「制度」そのものとなるので、貨幣経済はその時々の「オイコス」の「周縁」が形作る制約の中で、制約に適応しながら活動していることになります。貨幣経済自体については、価格差が利潤を生むというドグマと、財の配分の媒介は貨幣が行うというドグマだけがあれば、形態は問わないわけです。貨幣経済としての資本主義は、「オイコス」の「周縁」=「制度」が変化すれば、それに適応した姿をとることになります。近代市民社会と呼ばれる「オイコス」の「周縁」=「制度」に貨幣経済としての資本主義を適応させると、それは、「産業資本主義」という形態で開花したのかもしれません。しかし、「オイコス」の「周縁」と、それによって形成される経済の形態は、との関係は、決して静態的なものではありません。ある「オイコス」の「周縁」=「制度」によって形成された、特定の貨幣経済と、それを産み出した「オイコス」の「周縁」=「制度」との間には特定の貨幣経済が、「オイコス」に影響を与え、「オイコス」を変質させるというダイナミックで相互的な影響関係がみられることもあるかもしれないのです。そのせいなのでしょうか、近代市民社会と呼ばれる「オイコス」の周縁=「制度」の中には既に変質しているとしか考えられない多くの兆しがあります。このような文脈の中では、近代市民社会と「オイコス」の周縁=「制度」を持つ社会の中に、「産業資本主義」を、実現してきた貨幣経済が、これから「オイコス」の周縁=「制度」をどのようにかえていってしあうのか、一抹の不安も否定できないところです。

とはいえ、多くの経済理論は、むしろ、資本主義のルーツになど、関心をもっていないと思われます。経済理論の多くは、目の前の経済現象に関心を集中しているのであって、資本主義は所与の事実と考え、そこで思考停止してしまうことが多いからです。こうした、歴史に無関心な経済理論に依拠する学者に、あえて答えを求めると、こうした学者の多くは、おそらく、資本主義のルーツを「オイコス」の外側に求める経済理論を支持するような気がします。歴史に関心のない経済理論として新古典派の経済理論を考えてみた場合、商品の価値はその商品に対する消費者の主観的な効用にあり、それが一人一人違うものであることから、そこに価格差が生じ、それが利潤の源泉になると考えるのですが、この考え方は、資本主義のルーツを「オイコス」の外側に求める経済理論にほかならないものだからです。

資本主義について考えてみようとしたときに、その多義性は、ひとつの大きな難問なのかと思います。そうした難問に遭遇した場合、その克服のためには、資本主義のルーツについての考え方の違いを意識してみるのも、有力な手掛かりが得られる手段になるような気がします。